随想 舊夢日記


  或る御婦人の談

 玄冬も去らむとして居た。――此の頃は、いづかたにも、汎かな日向には、ほくほくとした、皴の深い方々が、蜜柑だの、御煎餅、嫌、饅頭だ! 嫌、ありゃ口が渇く! では? と若いのが云うと、黙然決めて、パン、と云う。――
 さて、午も三時と見えぬ。陽がかぶいて来た。――で、四気は忙しいねえ、ほんと、嫌だわ、と、茶にも、菓子にも、手拍子して、こよなしもなく、すずろ、若いのが、
「いや、平成も末ですね」
 などと云うと、洒落事でもない、鹿爪らしい実体で、語り出した婦人が居た。婦人、と云っても、年齢は年齢で、眼皴深し。それが、眠った眼で、面つき穏や、陽を浴びて、
「昔は、戦争だったからね、そんりゃ、苦労した。ほんとよ。――況や、不況で人も、ああ悪りい。近所皆、敵どうし。で、あたしが、とよちゃん! って呼んでみ。母さんが出でて、箒であたしをば退けるのさ」――と茶を啜って、
「んでさ、兄貴が戦争に行ってさ、もう、死んで、帰らん。と思った。うん。神様に祈っても、敵わん思った。があ、彼奴は凄い、生きて、生身で帰ってきよった。ああ、ほんと。そん時あ嬉しくて、まなこを真っ赤にして、泣いて、ああ、神様あ、と思った」
 が、此処で調子が変わって、陽に雲懸かる、樹々さざめく。――
「そでも、周りのご近所んとこさ、皆助からんかって、みんな泣く中、あたしらだけが幸せって、近所の連中、悔しいかなんか、本気になって、八部よ、八部、近所八部」
 ――うふふ――周りの者が笑う。
「で、引っ越した。そっからが、人生の、始まり始まり」

  輓近行きし墓詣 下

 松戸の駅を潜って、日輪激しく、冬だに汎ら暖なるは、繁華に仍ってではない。将に当に、東風吹く勢いに、帽を外し、外套をば荷にかえつつ、墓所は八柱、いかで墓ぞ分かつや、それ、彼の大樹を右折せば、我らが先祖の墓は、四気変わらず、悠然と、其処は一つの世であり、狐白裘も、此処では木綿にも等しい。
 樹々の骨浮ける状、雲は雪踏み鳴らしたる如く、まばらに、千切れ、果て、西を目指し、旅の情け、陽はよけん、ああ、晴れた晴れた、爺さんは念仏のように、先刻よりぶつぶつ。……
「うわうわ、あらら、草鬱葱! 」
「この樹がいけぬ」
「ばあさん、のこは? 」
「はてな、裡さね」
「裡か? 」
「のここそさねあれ、俥の裡よ」
 と、祖先にも愧ずかし。――よしや、就中、つがいの仏をさきに、細目こそよけれ。
 南無大般涅槃、云うまでもない。大乗の戒、之則ち、仏法の基。――と草を毟り、石を清め、水神の心を思い、爺さんが出て、杓を持て、
「南無阿弥陀仏」――
 其処には、母にあらず父にあらず、祖母かあらず、祖父かあらず、しっかと、曾祖父母の双が私を見ている。
 私も慇懃を尽くさむと、杓に、清水を、敬を、運び、露落としたれば、弾け、土を潤し、私も合掌に、風吹き、樹々峰々は空の本。
 ――春が近い。――

  酒呑 二

 笑いに笑った。
 未だ小夜は深く、諷吟も尽きた頃、ほえみの懸けた右り、渠に、
「あんたは如何思ってているの」
「何が、」
 と私は、仰ぎ、臥し、まなこ遊ばせ、
「此世の事、」
「いやいや、そんな阿鼻より辛い」
 と袖を翻然と返し、
「こんな処、咽ぶ思い」――
 と、ウィスキーをちびり遣って、
「あんたも大変ね」
「皮肉だなあ」
「はははは、そうか、皮肉か、ほんとに悪かったよ」
 須臾の間、悄然たる思に私は……来て、……涙。
「ふふ、あんたはほんっと卑怯さね」
 震えぬるのんど。
「でも、あんたを、……許す」
 と、拳を作り、机を、気を、夜を流してけり、
「あんたも、お疲れ」……
 宵は爰に尽きしや。――……
 涙に笑顔に――

  世々喧嘩

 ――当世に抛つ也、戯述――
 平成こんちきしょう! 年号もいつか、変ずと、上古久しく、神農氏を知するもの、亦た、赤松子をば識るものあらじ。折に波風吹き、いぶせしは、詰り、無躰に清時に感く、地潢の狭さである。
 蒸暑に、涼気は絶し、清気失せ、夜も深い、夏の熱帯。東の都、何某区域。一軒の屋根の本、卓を、鬱述と取巻いた両人。一人は七そじの翁で、皴深く、見事使い古された面つきは、よろりとして居る。もう一方は六十の未だ若い小母さんで、脂ののった、小太りのでっぷりとした腹。つがいに黙然して、慨然たる白熱灯のしも、概ね、当世の一家とは茲の状だろう。
 女は更なく、
「ねえ、お酒はもう些と抑えて下んせや」
 七そじは浅笑いに
「何を」
 と可笑気。
「何をも何も、身に害るでしょう」
 七そじに暗雲伸びて、
「大丈夫だってよ、己は酒で廻っているんだ。夫れを奪おうとは何事さね!」
 女は向かって、憤り、
「だから、いい加減と云うものがあるでしょう。子供でもあるまいに」
 七そじは忿怒を忍ばせ、低き音調にて、
「酒は自由だ」
 と、女は眉をば顰め、
「いいや、もううんざり! 此侭じゃ、身をば滅ぼしますわ。一片痛い目をみないと判然らないのね」
 七そじは葉巻を出だし、一服がてら、立ち、窓辺に寄り、煙混りに
「己が呑みたいと言うのだ。いいだろう」
 奈何せん! 閑却こそ口惜しけれ。女は強いて、
「いいえ、呑ませません」
 と、瞋り吹出で、
「己は呑む!」
 と叫びてけり、続状に、
「死んでも呑む!」
 と口をば尖らす。
 冷然と女は
「死んだら酒は呑めませんよ」
 七そじは悴けて、TVのリモコンを抓んで、癪に癪を乗せ、アア! と咳をし、女は呆れ果て、立ち、戸に縋り、
「あたしは寝ますからね、酒は持って行くわ」
「ふん! 勝手放題! 万歳!」
「莫迦。憚り」
 独り居残って、為すこともなし。戯れにTVを廻らせど、只寒々。空し。
 酒無き素面。玆男、不眠もあり。ああ、辛そうな。
「ちっ!」
 と、奈何にも昭和気質。
 で、寸刻も後、娘が帰宅し、
「未だ起きてんの」
 と、外套をかいなに以て、坐し、
「いい加減にしなよ、もう、強情」
「何が? 強情さ」
「だから、お酒漬けも、程々よ」
「ヘン……」
 可笑しいもの、娘のさきでは「ヘン」しか出でぬ。
「ほら、もう桜も咲くわ」
 と窓のしも、骨木立、月光差す、アパートの小庭。
「で? お母さんと、仲直りしたら」
 と、へったくれもない。
「喧嘩なぞしとらん。彼奴の虚勢よ」
 とTVを回し、ニュースが、
「あんなばばあ、放とけ」
「強情ね」
 と、TVを指し、
「ほら、下らん。殺人だ、不倫だ、金だ、って、メディアも阿呆だな。こんな莫迦みたいな代物で食ってるんだもんな。お疲れえ。ってな」
 でTVを消して、前かがみに茶を啜る。
「でもさ、パパだって、酒だのなんだのって、私からすりゃ、下らないわ。話にならない」
「国が濁ってりゃ、家庭も濁るのさ……」
「じゃ、世も末なら、家庭全ても、まるで末の末ってね」
「ふふ、もう此の世もお終いさ。御臨終。ってね」
 暫く間が空き、娘は鞄を背負って、
「じゃ、寝るわね」
「おやすみ」

 それから、七そじはベランダに出で、欄干に、煎餅の如く、厚く、皴塗れなる手をば添え、草臥れに、ふっと一息。
 もう、春が来ると云うに、いづく、かまびすしく、鬱鬱たる当世、星も逃げ去り、月も朧に、都会の気に暗む思い。ああ、虚しく、疲れた此の世で……

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