懐古病 完結

乳母車



 其一
 ――夏が近い――
 昼間は勢いに任せ、よさりは雲の通う間暁と成るは、尤もなるが、中、微かに冬吹く凩があり、寸刻……懐かしい思いあるに、矢張夜風は刃物なり。
 肖た感として、春夏秋冬いずれとて、廻める時節となれば其感は生じよう、と云ふのである。詰り人の生は、則ちそれの順繰りなのであって、老人とて其情の仍る処だにある。が私の祖母は曰ふ。――人は呆けねばいかん、生物みな然り――私は俄、寂然とした一ト屋に侘しく、うそさみしい思いに、だしぬけに、黙然したが、祖母は続状――是、先生の言。覚えときなさいな。御前其中呆けるぞ、云われて居る中に人は呆けるのだよ――と。
 其如ことをば、椿の畠、――否、古家の庭だ――こぼれそうな真丸な椿の玉の紅に、枝葉の淋気な、入乱るる状のさき、冷ややなる縁の辺、夏風に霜髪に……ああ――
「起きないか、ええ!」
 驚愕いて、発と、仰見ると、
「起きないか、八時も回ったよ」
 とふかふかとした割烹着にすっぽりおおはれた、不愛想ではないが、尖のある、而し顔は丸く、太った、吾が祖母が、
「何してんの、支度なさいな」
 再び発と、かむべを振って、
「いけない」
 と身を起こさむとせば、朝日が切とまなこに映して、古家の六畳間、向かい小汚い勝手場がある方をふいと見て、亦たぐるりと、縁のかたへ遣ると、
「ばあや、――」
「何だい」
「椿が咲いたのねえ」
「ええ、綺麗だわ、去年は咲かなかったけれどね」
「え、去年も咲いたよ」
「然うか知ら――て云ふより、あんた学校は?」
 と正気に成って、
「いけない!」
 と、まあ、目差しが出たんだったか知ら、味噌汁はわかめだったか知ら、大分ゆっくりした。が、玄関では、彼れを忘れた、はて、是を忘れた、なんど茶番のヴェルディ、――とは云過ぎたが――家を出でて、
「いってらっしゃいな」
 叫ぶ声。

 其二
 通途は行けど行けど、にらの畠、天堯く遥として、雲が……もう峰であった。――山懐に育って、此途ばかり、しっかと覚えて昔日より、亡母の代理ぞ祖母なりし、共に小さな時分から、てくてく歩をば転ばせて、夕射せば峯は火を湛え、玄冬ならずんば小雪が凝りてや、夜分の幽に魂驚かす事さへ、――と、三十分もせば、吾村の中、爰ばかり、憎い処。学舎と云う響きが奈何、友あれざれば、教師は能天気の爺さん、それや!、おれおれ、などと、来たな、と思うと、余り敲くやほざくや、おんなごを何と心得たか、汚い奴はどこ迄も汚い。
 故、数学の時分にも、此如ことを知らねど、生きていける、高尚も過ぎる、田舎の村が因数分解を遣ったとて、繁盛するにない、と考える。
 更に云うなれば、近頃はどこの殿様気分か、ん、王子か、携帯に、――否スマホ、と――溺れ、是学をば治むるに害なりと雖も、教師だに、ゲームを嗜み、否、気晴らし位なら宜しいもの、――が訳がさかる。詰り、子供が登下校の程に俯いて、箱庭に囚わるるや、況や自転車、及んでは車の、――爾もトラック――運転の其最中、何を誤ったか、弓手にはスマホ――是では、過失に成ろうと、尤も死んでも文句は言えまい。
 で、給食――謂わば孤絶の――である。
「席をくっ付けろ、もたもたするな、手早くだ、飯が欲しいか、なら急げ」
「先生って、女の割に饒舌で頑固よね、蒼蠅くて堪らないわ」
「聞こえちゃう、うふふ」
 是にしても等しい、教師が能天気なら、生徒も、無論、能天気なり。今も三人にして陣形を組んだ女生徒は、皆盲目にもスマホ、――田舎者が!――叫んだ声は心中に谺す。
「おい、竹之内、なに茫としてんだよ、邪魔だぞ……」
 と追抜き状、私の爪先に、幸か不幸か、無論、悪意などはなし、渠は転んだ。でかんべを、打った、強く。
「おい!」
 とひとり叫べば、ざわざわとし始め、謂わば魔女裁判である。……
「竹之内がわりんだよ」
「然うよ」
「おい! 先生何処だよ!」
「先生ー! 事故です!」
「大丈夫……」
「おい! 竹之内! 謝れよ」
 と、悪意なき虚構的、亦た偶発的事故を、起こして仕舞った。如何しましょ、男の子は血を流している、然し私に悪意はない……で罪人は運命だ……が謝らなければ、
「ご、……」
「あ! 先生!」
「竹之内です」
「ありゃりゃ、是あ酷い、おい! 保健室運ぶぞ」
 奈何せん将た奈何せん……ああ! ばあやに、云わねば、然うだ、ばあやと一緒に謝ろう。
「ほら、竹之内、来い」
「いえ、ばあや……ばあやが」
「んん?」
 と、涙が横溢して、如何しましょ、……

 其三
 それより、職員室に連行かれ、幾らか叱られ、私は悔しくて、けれど悪哉……と心持罪に意識を吸われて、涙ながらばあやばあやと、――だが、教師はばあや気狂いじゃ、然うだねえ、是じゃ話に成らん……と亦た可笑しなこと。
 それで、わたしは学校を飛び出して、一体幾ら走ったか、歩いたか、やがて坂を下って、林をば抜け、半里行ったか、否、心じゃ万里は走った位で、夕も帰って仄暗い時分、家も近いと見えた、が、心中たぞや、出任せで以て、――叱られんぞ――と嘯く。……是に困憊して、はて奈何すぞ、と侘しくにらの畠をや見て居ると、――やや、何をしているの――と聞きに覚えがある。……発と顧みば、祖母の皴に塗られたおもて、咄嗟に――学校はおずしひ――と云った、淋気に……ささ、帰ろ――にっと笑って手を取って、腰が痛いと言いつつ、のそのそ……で、あらましを――小さな子なる私の拙い語では、判ってもらえまじ。……と思いつつも、話して居ると、
「それは、あんたが悪いよ、ちゃんと謝ったかい?」
 首を振ると、
「あらあ、じゃ、ね、明日、二人して謝りに行こな、ね」
 とほえみ混じりに云う。私は首肯して、安堵か、ほっとして、わあわあ泣いて、悔しいか、空しいか、――それから、御夕げを頂き、――寝入の際……
 
 お爺さんはいざうかた……
 万里の方に夢む空……
 泣ひて居ないで顔あげろ……
 あんた無茶さ、娘だに……
 遠く隔たる御代の国……
 哀しき現、眼前に
 孫の顔みりゃ、勇みに勇み
 なんのその、この子の為なら
 娘の事さへ…………

三伏が逍遥路

 其四
 家をば出でて、ものの数十歩……藍碧を湛うる、日盛亭々の、玉敷が瀛あり。
 其処へは、――祖母と――二人よく行って、貝殻を聚むも一半、もう一半は、只、茫然を尽くす、謂えば、――ヨーガ――の、則ち瞑想である。
 浪が畝り、白日を翻し、空晴れ、雲峯が堯堯として聳えるに、後方の森に蝉の鳴音かまびすしく、ふと、透明な心地、――ザザあ、ザザあ、ザザあ、――ミイン、ミイン、ミイン、――ザザあ、ザザあ、ザザあ、――ミイン、ミイン、ミイン、――
「不思議だねえ、お前の母さんとも、こうしたものだよ」
チラリ祖母をみつ、
「お前とそっくりだ、学校も嫌がる、束縛も嫌がる、でも、勉強熱心で、頑張る処は頑張る、うんうん、そっくりだ」
 祖母の籐椅子――古びた奴――が、軋み、
「実はね、内緒だよ、母さん、大分弱かったのさ、是を云うとあの子、怒ったなあ……」
 としんみり噛絞めて、遠いまなこ、海の彼方行く汽車――
「言うのも、努力家だったのさ、あれだけ言っても、嫁いだんだから……」
 と静と云うと――ごごお、ごごお――と、鳴る音、
「あ!」
 と指差す天に、ひと條の尾を引きてや、飛行機が行く。
「ははは、飛行機だ、珍しうね」
「うん」
 天地蕭条に、籐椅子の軋む音ばかり響いてぞ、夏も涼しき、風に涼しき。
「さ、行こうかな」
 と立上がり、
「次はいずかた、はれはれ」
 と気入りの錫杖――と祖母は呼ぶ――を持ち、街の方を目指す。……

 其五
 天清々と雖も、爰は将に暗し。――田舎の古本屋――巷に小母さんが円を描いて、噂話。紙魚の着いたる古本の堆さ、埃の舞える香、生活的なる勝手場さへ見えるし、飾窓の奇妙さは、子供の心に曇差す、繁華なんどないが、どこか温みある、妙の場である。
所以も分かたぬ、樵のポスタ、――クマに注意!――と、それら壁一面をうずめ、脂に染まり、汚い小窓、そこには、はて、水は遣って居るか、青々とした草あり、一体いずこより貰ったか、大層な壺が其下に。
 勘定場――と云うほどじゃないが――台があり、其処に薄手の縞の、粗く仕立てた羽織を着た、妙な婆さんが不吉に莞爾しつつ居る。
 何処の何ぞも知れぬ、ラジオが、亦た、ああ、かまびすし。
 と、祖母が奥に入ったと思うと、何となく、一冊選んできて、
「ほら」
 と是もアンティカ、
「是は?」
「是、あんたの生まれた歳の、大賞取った作家さんなの」
 と云われど、はあ……よくわからず、難儀な漢字ばかり、
「今は難しいかもね、まあ、其中読みなさい」
 と勘定の婆さんに、――是可笑しいが、
「あたし、爰の店員じゃないの、うふふ」
 と、何故や敏捷にて、さっと席をば抜けると、亦た奥手より髭の太ったのが出てきて
「いらっしゃい……」
 と走る婆さんを見て、
「あれは、痴呆の母で、へへ、すいません、へへ、あれでね、何時も働いてんのよ」
 祖母は驚きを緩や沈め、
「そうなんですねえ」
 と云い、おもてで待って居る私の方へ来て、
「見た? 今の、」
 とにやりと云う。首肯すると、
「ははは、矢張り呆けは可笑しい、嫌ねえ」
 と馬手の本を此方差出、
「暇な時、読みなさい」
 と、不思議な気持ちに、何や、嬉しいような、切ないような。……
 笑う祖母を眺めて、はは、やはり悲しい心地。……

 其六 散歩
 家の裡、――炭焼く工場がある、其もくもくと黒く、打昇る煙は、恰も真澄に懸かれる蛇であり、私は其処に爰の処……魅せられたように……通って居る。
 樹林に取囲まれ、松蔦の絡まる煙突、今も見上ぐると繊繊たるけぶりをば吐き、時折、老父が慌しく、石炭を搬ぶ景さへ慣れたもの、で高い壁の右り方、事務所あり、其処へ皆、昼休で、聚まる。それを見ると、隠り炭焼きの釜を見学する、女としては、いや、少年らしさに時に触れては恍惚とするものである。
 で、其如風光に憧れて、或ひは恋じゃないか、或ひは郷愁じゃないか、然う思うばかり、其工場は美しい。……
「おい、何しとんの?」
「女の子だ」
 と、髭の群がりが来て、時折弁当を分けて呉れたり、
「隠れることあない」
 と、工場を見せて呉れたりする。
 其工場は、もう幾十年、爰にあると云ふ、古株で、私が物心就ひた程には、もう見慣れた、山腰の大樹である、爰あらねば、火を用えざるは必至である。
 して、夕射して、煙突も紅に、長椅子に据わって、手をかざすと、影映えて、林の群れも暗がりてや、軈て、一人帰路に就く。……其炭の香が、ブラウスに染着いた。

  其七
 夏も暮懸かりであった。……大分極暑が過ぎるから、庭に水を撒く、がはて迷夢の如く霞みて悄々消える、其鮮やかなるばかり、……それから、暫く外出があり、家を空けた。
 祖母と羈旅へ――と云っても、ほんの一寸の墓詣で、大した旅行じゃない。祖父と両親の、あと吾敬愛する兄のである。
 車は、昔父が用いて居たのがあるが、祖母は、尤も運転なんど、寧ろ避けて来た位だから、詰りバスと、列車――海より見ゆる、あの――で、行く。
 窓越しに浪の音が、恰も車体をば揺るがす位、ざぶんざぶん、そよそよそよそよ、聞こゆるに、透明な泥酔、――此身も揺ら揺ら……
 遠く、揺らぐ眼界に、孤島が幾つか流れ、雲の峯が、将に当に峰にして、旧門によると、此私の住む村も、昔は大なる雲の峯で、軈て纏まり、散っては聚まり、地上に降った白雨が、之島に成ったと云ふ。――
 がたごと、がたごと、音を発てて、トンネルに入った、その後、ランプのみに成り、
「淋しい」……と云った。すると、
「ばあやも、然う甘えたわ、……お母さんに、詰り、あなたのひいお祖母ちゃんだね」
 と暗い中にも愁うまなこ、落として、
「でも、仕様ないわ、昔の話、」
 と目をば覆いて、
「次、降りるわよ」
 と、抜けて、トンネルを。徒らに曙を思ふ。萌出づる樹々の中を行くと、茫茫たる平坦なる草地に抜け、遠つに峯が深緑鮮やかに、昏む程の佳境の、陽日……線路行く方裂けてぞ止まりぬる。……

  其八 
  
 枯葉よ……
 絶え間なく……
 散り行く……
 枯葉よ……
 風に散る……
 落葉のごと……
 冷たい……
 土に……

「ほんりゃ、重い、持って呉れ」
 と桶、杓、線香、それらの仏具、殊に今日の為買った線香置は、石だから祖母の手には過ぎよう。
 病葉の紅縁取る木立の本、二人砂礫を歩み、……とすると、
  
 竹之内 

 と建てる墓石あり、
「ほう、漸とだわい」
「ばあや、脚が弱く成ったね」
 と、云うと自らの腰をば、ぽんとはたいてや、
「いいや、……」
 と線香を取り出し、
「脚は良いんだが、爰迄来る気力が無くなったら、御終いだあ」
 と、よくわからぬ。
 で、件の線香置を据えて、
「おやあ、水仙がはえとる、ほほほ」
「ほら、御花だわ」
「いいこと、教えて上げる」
 と水仙一つ抓取り、
「是、押花にしよう」と、てくてく歩んで、
 水仙の花咲く、墓前、立尽くせる私に、向こうの水場より、
「へえ、これ!」
 と桶一杯の水、太い、して弱った体に、
「持つよ!」
 と、大して重くも無いのに……
 木葉を箒で掃いて、ふと見れば、愁気に、凝っと見つめて、――墓石を、何と形容すでもなし、ああ、哀しいんだな。……私にすれば母の死、祖母にすれば娘の死、……其、相違は、思いは……どうだろう?……
「しょうがないね」
 と杓を取り、
「さ、懸けてやんな」
 重い杓をば授かりて、水を一と掬い、――頭からざぶんと懸けて、合掌に祖母の瞳に、悲しみに、……
「さて、あたしか……」
 と躓き足、発として、私が受けて、
「大丈夫?」
「ああ、悪いね……」
 時、亭午に、祖母の愁える皴のおもて、夏も暮れなずみ、秋の香あり、風が妙に冷とう、――ああ、空晴れ、雲千切れて、恰も其向こう、彼人を見ゆ。……
 

秋騒乱

   
   其九
 夕も横たわりて、静なる樹林を、図体の幅広の洋服出立ちが二、三人、足をば踏鳴らし、宵にも紛れた真黒の影――、家にぞろぞろ入って行く。
「やい!」
 と一声発せば、祖母、飛起きて、
「おい! 金さあんだろうや! 」
 と玄関を土足にての昇り、立尽せる祖母のひわやな胸を掴み、
「ええ! 金だあ! 四十万、未納ですぜ、婆さん、ええ!」
「いや、今は無一文、明日、明日わ、渡します故、如何か、今晩は、……」
「ええ! 蒼蠅さい! 金が無えなら、家財を出せい! 」
 と祖母狼狽して、
「いや、とても困ります、……」
 と、孫が起きてきて、
「ああ! 払えねえなら、全部持ってくぞ、ええ! 」
 と、奥に進み、
「全部持ってけ! 」
 と命令すれば、忽ち侍る二人が、棚、机、置物、限無く持ち、仏壇に触れんとする処、
「あああ! 気狂いが、人のもん貪って何いが愉快しい! 」
 と祖母激昂し、男に掴懸かる。
「蒼蠅せえ婆さんだ! おら! 」
 と孫の眼前、年寄のおもてを殴りつけ、祖母弾けた。
 隅に倒れ、孫が咄嗟駆寄り、恨深い眼差しで、にらむ! 男を! ――覚えたる、人への憎しみ、それ今程激しいものはなかりしに、孫は心に火焔を滾らせ、――ああ、人程醜いものはない! ――とこぶしに堪え、非力なるかいなにて、あああ! と、男をば殴らんとて、駆出だし……――――が、
「ははは、何だ、餓鬼めが、ほれ! 」
 と軽く弾かれ、祖母の方に倒れた。
「是あ、金にも何にもならねえぞ、次来たら、命ごと海ん処へ沈めっからな! 」
 と、仏壇より位牌を抛りて、仏壇の大なるを運び、六畳間は空っぽとなった、其処に二人残って、祖母が、疲弊のおもてに、
「はあ、ごめんね。寝てらっしゃい。……」
 と孫は怒り猛ったる拳をば心中に、心中にぐっと収めて、
「彼奴らはなんなの? ……」
 と祖母は眼を落とし、
「若気さ……若気……こ、こんな事をば孫に話すも如何かと思うが、この際だ、……実は、あんたの両親の、その、借金なんだ。……と云うのも、此家をば建てるってんで、……爺さん、あたし、あんたのおとっさん、おかっさん、でお前の……兄貴……で大所帯で、当時あんたは小さかったが、幸せだったよお……で其借金取が、今でも、着いて回ってる。……仕様がないね、はあ……運命さ、此家のね……最初は兄貴の奴が、金を稼ぐんだ、なんて言ってたが、ぽっくり死にやがって、おまえの心も露知らず。ああ、……やだやだ」
 孫の心、……今、奥底の闇に人の弱さを知り、ああ、斯う云う時、人は無力で、此有様、ああ、神も居ないに等しい、夜は、只暗い、谷底さ、川辺で、闇で、泣くのさ。……で、其弱い人が、人をば貶める世中、醜い、汚い、……少女の心、静に揺らぐみなも、恰も俗世を知り、ああ。――

軈て娘は

其十
 涼しき風も颼颼と、秋を、して冬を、浮雲疎らと、山々も燃立つばかりの紅葉に、――昏み、憧れ、――紅い世中に、雪も降らむか、否、未だ秋雨、……軈て入相は早く、既に神無月であった。
 私も亦た、齢を経た。が、高校も、大学も行きはせぬ。――と云うのも、金がないのは云うまでもなく、然して、――祖母が病に成り――、或ひは咽び、或ひは吐血する、其有様では進学も出来得ぬし、せよ、と云われど、私の情が決して許さぬし、亦た家も古び、薬にも金が要る。以て、私は学校を諦め、――どこぞのお坊ちゃま、お嬢様とはさかるから――働きに出で、或時は本屋の散しに書いてある、――定員募集――の面接を受けたが学歴上の工合で、断られ、衝返され、或時は銭湯に働いたが、せでも給料の軽さに徒労に苦しむ。
 で、有り金欲しさに、ふらふら、と、当もなし、只豁然たる、広い商店街を、捨犬の如く、待て、と声を待ち、空は灰皿と曇って、行人途絶え、――平日――昼間――以て、帰った。
「只今、ああ寒い」
 と件の空っぽの六畳間より縁板を伝い、祖母の屋に入ると、
「お帰り」
 とストーブに、侘気に、すん、と椅子に座って、
「仕事は? 」
「いや、だめ、何処も受合って呉れない」
「然う、……あ!、お湯が沸いてる!」
 と、云うが、お茶は其処ににある。
「お茶はもう淹れたでしょ」
 と云うと、だしぬけに落込んで、
「ええ、然うかい……」
 と俯き、哀気に、眼を瞑って、寝てしまうのである。
 祖母は随分老けた。
 最初は、歳の為であろう、と油断し、況や確りして居る婆さんだ、とも、心の裡では言い聞かせ、何となく、其沈み行く状を、夕陽位に思った。
 が、夕は美しかれど、軈て夜も迫って居た。……
 或時は、
「何処へ?」
 とドアの前の祖母に尋ぬ。
「ふうん……」
 と亦た椅子に坐す。
 で、亦た立って、
「何処へ?」
 と聞くに、
「爺さんは大変だったよお」
 と云うのである。
 仏壇代わりの小棚を見て云う。ああ、此人は未だ大丈夫だ、思う。
 哀しさ紛れにおもてへ出た、が、行く当てもない。嫌に成ることも有る位で、人に縋りたくなる、鬱病をば思って、自ずから自ずを嫌い、爾りする寸刻も亦た、嫌うには能わねど、何処か心持、忌む。が矢張り、懐は金一銭もあらず、――ああ、借金取が来る――と思い立って、俄恐ろしい思いがふっと、湧き水、!……
 で、家に向かうに、晩秋の寒い道を行き、霜月もわたって、もう師走も近い。――
「ばあや!」
「おい、今日は七万だぞ」
 とスーツ出立ちの。
 と云うも、約束は五万である。
「可笑しい、今日はここには、五万しかありません、これっぽちです」
 糸のように細い眼で、
「気を利かしたら、如何だ、ああ! 、利息だよ」
「信じられない、……今日は是のみです」
 と五万を差出だすと、無造作なる手付に、ばっと奪って、
「では、次に付けとくぞ、」
 と出て行った。
「ばあや、大丈夫? 」
「ええ、でも、娘が待っているから」
 と手を握って、
「ね、あんたも仕事頑張って」
 と亦た寝てしまう。――

  其十一
 職が無くなった。
 人知れず、勤めて居た銭湯で。人間は私のように、尖ったものを受け付けぬ。何故や?……無論諸刃である、其愚かさである。
 人とは醜いもので、自らに害を与えるものをば迫害し、それ、尤もなれど、悔しき、ああ、悔しき、……何ら障碍あらぬ身にう、生まれながら、し、仕事ひとつ出来ぬ、馬鹿者か、語弊なり、昏愚、それともつかぬ、……ああ!
 一体なんなのであろう? 私を縛る、此悔しさ、此悔しさが……!否、憎悪、爾り!、ああ!、憎悪だ!私の身体に巻着いた蛇、憎悪だ。
 人間に生まれ、親に授かったご筈なる、其命。それをば何故憎むのか。――

  其十二
 ――愈々、此村では稼げなく成った。――

「五番、発車します」

 風景が遠ざかってゆく、が殊に思う事もなかった、寧ろ期待による、浮心で、将に凝っとはして居られぬ。

 もう、気づけば、大阪であると云う。――格物が西方へ流れ、ビルばかりに成った。
 時して、トンネルの暗中に自分が映して、がたごと、揺る。――
 客が大分減った気がした、が、新幹線である、気のせい。――もう、東京は近いと云う。
 職に当がある。父方の叔父の、経営している、こじんまりとした、会社があるのである。
 自分が大人染みて思えた。何か、こう、自分ではない何かに、――宛ら、蛹が殻より抜出づる時の如く――堪らない! と叫ぶ、と思う。
 恋と云うと虚言で、情に欠け、川と云うと硬い、則ち浪である。――淋しい夏、である。
 外人がいる、
「ミワクテキ、ウフフ」
「そうですね」
 私は日本の男なり、
「イイネエ……」
 と吸い込まれたり。
 余りて御苦労蒙りける哉。と思いぬ。
 綺麗なり。異常たり。馬鹿げゆる、綺麗なり。

 と手控えに錄し、陽の激しき、ホームを出た。

  其十三
「成程、じゃあ、こちらの空欄を、埋めてください」
「はい、」
 と、机の向状、若い気立ての良い、淡い水色のシャツ、臙脂色の首巻……とワザワザ説明するまでもない、私と齢も近い、普通のサラリーマン調の兄さんが、ビルの応接間、こせこせと応じて、
「では、明日から、はい」
 と何が嬉しいのかにこにこして、――ああ、是が所謂、営業スマイルか――なんど考えつつ、応接間を出でて、
「では、ありがとうございました」
 と粘着は良い。うん、渠は良い青年だ。不味い世でも良い奴は良い奴だ。
 が――今は斯くでも明日よりは先輩である、尚ぶべき人である。
 と、奈何とてよろしいのをかむべに浮かべ、少なくとも、其時、誠意はあった筈である。が、都会は難しい。……

 明朝、出社した。無論、遅刻なんど、して居らぬ。だが、叔父の伝手のおみなぞなる、と云われ、小父さんや小母さんや、追いつけぬコオルに、しりへより負われつ、果ていちゃもんの言い放題、大激昂をば慰め、落着け、恰も不動明王様に触るるように、静と、脾胃を触るようなる対応をせねばならぬ。
「さあ、竹之内くん、お昼、どう?」
「ええ、……宜いですが……」
 と見も知らぬ、六〇幾つの年配と、――否、憚り――立派な伯父様と、昼を食べることになったのであるが、
「いやあ、感激だなあ、こんな若い姉さんと、うへへ」
 とスマホ、を俯き、
「で、仕事は慣れたか? いやあ、日いっぱいじゃあ、慣れる訳ないか、あはは」
 と、云ひ忘れたが、爰は所謂、――スタバ――、である。……珈琲は飲まぬ。故牛乳を頂戴したら、大笑いされた。
 と、向こう、子供が泣いて居る。で、乳母、……じゃない、母親が躾ける。のだが、暴言に以て、うるさい!、とぶん殴って、親とは思えぬ。不毛である。……

 ……母が居なかった私にすれば……

 と情に寄れば窮屈だ、と一つ悄然として居ると、亦た小父さんが、
「ほら、このサイトに載ってるレストラン、良いでしょう、妻には内緒だが、今度行こう」
「はあ……」
 いい歳の男が……
「まあ、ええ、……」
「ほんと? まじ、えええ、じゃ、行こ、か」
 と品がない小父さんで、脚を拱いて、大欠伸に呆れるばかり。
「あ!、今月あれの日じゃん! 」
「え! 」
「く、くれ、ええっとね、くれい、あ!クリーサだ、あああスッキリしたあ」
「え? 」
「え、クリーサの、あの、クリーサ祭だよ、知らないの? 」
 と、よく分らぬ、現代の語である、か。
「楽しみだな、ああ、でも、ちっ、彼奴と夜、付き合わないと、ああメンド」
「彼奴? 」
「ああ、妻、奥さん、ファーストレイデイ」
 なんと、……語にもならん。
「お子さんは?――」
「ああ、彼奴あ家で勉強でもしてんだろ、受験でさ、ふ、中学も私立は高いわな、ははは」
 はあ、……

 と疲憊にぐっしょり濡れて、オフィスに戻った。

 それから、……如何だったか、寮に導かれ、小父さん小母さん、兄さん姉さん、不安定な年齢の浪に揉まれて也、漸と部屋で、はあ、……

  其十四
 今朝に成って出社すると、事務所の机、其隣の兄さん――あのにこにこした――が
「おはよ」
 と、亦た憎めぬ笑顔で云う。かろく挨拶して、デスクを綺麗に整えていると、
「寝癖、ついてますよ」
 と指差す、
「ああ、いけない……」
 と鏡をば見て、直していると、
「なんか、意外とチャーミングですね、はははは」
 何ぞ愧ずかし。――

 で、渠に種々教わり、昼に成ると、
「お昼、如何します? 」
 と聞かれたが、昨日はあの小父さんと食べた故、例外である。詰りは何処でなにをば食らえば良いか判らぬ。はて、弁当は忘れた。何一つ余分なるものはなし。仕事のやつしか持って来て居らぬ。と云うと、昨日の喫茶店で、なにか足しになるものを……
「あの、未だこの辺、慣れてませんよね? 」
 ああ、蓋し、爾り、と考える。が、かんばせが引きつって居る。
「じゃ、ざっくり、売店でも紹介しますよ」
「え、あの」
 と、地下へ導かれた。
「ここで、おむすびとか、この、パンとか、あ……でも、やっぱ喫茶店とかの方がいいですかね? 女性は……? 」
「いえ、ここでいいです、全然、ええ」
「そう、ですか、じゃ、また、事務所で、」
「はい……」
 と渠はしりへ、遠つとなんぬ。――

 都会に染められている、気分だ。悪酔いだ、鈍く成って居る、麻酔のように。
 
 と或日の手帳に、何時書いたか、只、書いてある。

  其十五
 ビルが堆きに怯え、蕭条を求め、人が嫌に成るこの鉄の森――そもそも、祖母への仕送りは留めなかった。仕送りをばする毎に、ああ、ばあやは元気なんだなあ、思うばかりであった。
「ぷるるるる……」
 いつも通りに、受話器をスッと引いて、――もしもし、○○係、竹之内です――と声高らと云うと、……激昂、であった。
「もしもし、あなたね、如何して呉れんの」
 男で、老けた、粉を撒くように、怒鳴って
「おたくの便秘薬ね、ずずず! て出過ぎなんだよ! 二日トイレ通いで、仕事も行けなかったよ、如何すんのさ、ああ! 二日分、給料出して呉れんのか! ああ! 」
 心で少し、可笑しく成って、堪えた。が駄目で、
「ふ、……」と息に成った途端、弾いたように、
「ざけんなよ! こ、こっちが、ま、まぬけだからってなあ、なめさがりやがって……ああ! 只じゃ済まさん! 上司出せ! おおい! 上司だよ、上司! 」
 で、あの歪なる家族の小父さんを呼んで、
「お電話変わりました。○○社の内木、と云います。……ああ、失礼いたしました。何分しんまいなもので、ええええ、そうですか、失礼いたしました。今後は気を付けますので、ええ、はいはい、失礼いたしました。ええ、……お薬のお名前わかりますか、ええ、はい、わかりました、ではそちらに三日中には返金しますので、ええはい、ご了承下さい。はい、はい、失礼しました、……」
 と此方をじろり見て、怒らるる。と思った、が
「こういうの、居るんだよねえ」
 と莞爾笑って、
「気にすんな、こんなの相手にしてたら、切がない、ははは、笑っていこう、なんてね、ははは」
 と、肩を交わらせ、自分の部署に戻っていった。
 ああ、いい人じゃないか、何故渠の家族は、ああ綺麗になれぬのであろうか。
 先づ、なぜ綺麗であらねばならぬか。人は美的なるものに引かるる、罪をば有している。ああ、罪か、亦た、あの。憎しみが罪なれば、美感も罪か。故、標本作りなんどは、生物を殺し、美感に浸る罪人か。
 ならば、あの人も罪びとか、優しさは、罪か? ……
 「あの! 」

  其十六
 頃は午にして、白日皓皓と、禿げ頭の爺さん、と若い……女!?
「いやあ、食事に誘われるなんて、思いもしなかったよ、はっはは」
 と公園のベンチ、割箸を取り出し、
「この前、僕が誘ったの、そんなあ楽しかったのかい、なんてね、ははは」
 と珈琲を粗てに下し、
「あ、あの、それで、なんか用だった? それとも俺と食べたかった? なんてね、ははは」
「いえ、」
「ああ、だよね、相談? 」
「いえ、一緒にたべたかったのです」
 黙然し、鳥が啼いている。
「え、俺と? まじ? 」
 若いのがこっくり頷くと、
「ええ、まじか……俺もまだまだいけるなあ……」
 と奇異なるおもてに、
「俺と食べてて、楽しい? 」
「ええ、……」
 若いのは実体照れて、
「へええ、」
 ――そして、それより二年――

  其十七
 とかくして、彼是、働いた。
 気が就けば、春風も島国のように暖かく、つばくらめ、ああ、つばくらめ、と吟ずる位であった。
 して、次第に人と云うものを知って居る気がした位で、都会の、雑踏たる十字路に立っても、亦た、夥しいのクレイムも、まるで昔の自分が身体より抜け、新に心の裡、自分が生まれた如く、受け入れるように成った、不思議な気持である。

 何時か、誰かを必死に愛した気がした。
 それで、其を忘れたかった。
 いつか、夏か、冬か、であった。
 それで、其を忘れたかった。――

思出迷宮帳

  其十八 一頁

 人間は優しいものか? ……

 いつか、優しいひとの寵愛を受けた。

 人は醜い、が時して美しい。その双方を有して居る。

 美感とは、罪なり。

 明日、遅番。

 と、生活の中、気になることは、山のようにある。
 
  二頁

 人の小言や、悪口は、慮外に、――期待――と表裏一体だったりする。

 亦た、愛は――迷――と――憎――とで、出来ていて、人間の弱さである。

  三頁

 困った、家は何処だ? 

 家族は誰だ?

 恐ろしくなった。蛇に身をば取り巻かれらるや。がすぐ忘れた。否、忘れられた。

 明日、仕送りの日

  四頁

 太宰、斜陽。

 映画、ひまわり。四月十七日迄。

 先方にコピーを送付す。

 小父さんと、デート(笑) 

 爰まで、少女……と云うと嘘になる、二十幾つのオフィスレディの、謂わば手記である。続きを錄す。

  五頁

 幸、不幸は、平等にして、絶対的なるものにない。

 味噌、あらずなんぬ

 日常に吾、踊らされ、鍛えらるる。

 利己を律し、自我を除す。

  六頁

 時計、修理。

  ……

 午後も緩や下り、晩霞うすらと催し、茫漠として、引っ越しの作業をばし、娑婆世界も、夜気近し。見るにも飽いた空の、寮の小部屋もぞ、虚しい。さて、遥として風光望む此ビル、それだに、過去である。
 で、飲酒して、疲憊れたから、碧樹にもたるる想いに以て、布団に寝それり。
 皐月なり。万種過ぎて虚し。……

  ……

 ――山鬱葱と、峯萌え、三伏半ば、真澄の虚空は、行雲を抱き、残燭の淋しい夏。
 ……にらの畠が平坦に伸び、椿が玉と咲く小庭。委曲虚しい思出の果て。合観にも等しい恋。
 炭焼く匂いが立ち込める、長く遠い通途。……山腰に抱かれ、学校へむかい……
 夜のにら畠で、ちじ困ってていた。唄が聞こえた。…… 

 あんた無茶さ、娘だに……
 遠く隔たる御代の国……
 哀しき現、眼前に

 海あり、墓あり、本……確か! ……

 あの日の……

  其十九
 引っ越しが済んで、或る本をば見付けた。
 私の生まれ年に、誕生日に、発行されて居る、……
 恋人とは、もう結婚まで、あと僅か、……
 祖母のことを思って、嫁ぐつもりである。
 祖母はもう死んで居るか、まだ生きているか、……
 ただ、その本に栞がある。水仙のである。
 追想は追想の侭、

 あの村も、海も、山も、世界も、只一葉の写真として……あの声も体も、思出さへ――


 
 

 

 
 

 
 

 
 

  

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