其一
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
おん ろけいじんばら きりく そわか
のうまく さんまんだ ばあさらだあせんだんまあかろしゃだや
そわたやうんたらたあ かんまん……
ああ、今にしてこそ懐かしけれ。
昔が日に、稚子なる余をば連れて、今猶ほ通う、彼の列車に乗り、眷すれど、其景朧にて、失ふばかり、故大切を信じ、恰も家路の小路なり。
広尾の駅より降り立たば、家族のもの、亦た蛇蝎とて友、悪霊悪魔も聖に捩らるる、其一ト通り、魚売りあれば、しほらしき小物屋こそあれ。
軈て、坂を昇れば、御尊像迄、あとわずか、……
ああ、亦た、あの比は、あの人も足が善かりしか。……
蕭蕭と風吹き、門を潜り、小な庭を行き、林を行き、其奥つ、……更なる門をば渡りてぞ、ああ懐かしい。
中天晴れて、池は碧を湛え、現を逸す、金色の、ああ、美しき御手にかむべを昇らせたるは、燦爛たるは、……
其処に向かいて、合掌せば、真夏に清水を授かりつる如く、気は澄み、清く、風だに暖かいか、涼しひか、彼岸に、端月に、愛する人の死に、ああ、窮まらぬ。……
其二
確か、三年前であった。あちこち、デパアトを歩み廻った時分が、宛ら憑依された――子供のやうに、――あった訳なるも、聊か覚束ねど、ああ、亀戸の方の駅ビルであった。
で、車をば走らせて、ネクタイを買ふのだが、憚りも不知、店の若いのが、
「此方は奈何が? ではこちらは? 」
なんど、職掌と知って居ても些と煩わしひ。――で、結局は
「此首布、それと、此革腰巻を頼むよ」
と殊勝気に云ふのだが、
「こっちのジャケットもお似合いですよ」
と世辞もいい加減が宜しい。で、値を見ると――三万八〇〇〇円――と、無論であるが、洒落にも私の三日分の給料が飛ぶ。
「成丈、スキニイな方がお似合いだわ、好いスタイルだもの」
と、冗談混じりに店員は云ふが、予算の外であるし、何せ、切切の銭財、尤も、
「否、検討いたします」
と叔母の饒舌なる、遣口で云ふと、よもや押売りはすまいから、大人しく成って、
「然うですか……では、五千と八百円に成ります」
で勘定をば済ませると、店先迄来て、
「亦たのご利用を」
と叫んで、
「はいはい、どうも」
と、其如、時分もあった。
其三
六韜と云ふ、兵法書を読破したのは、はて、最う一歳前だったか知ら。彼れは亦た、一般じゃ売ってないから、中々見付ける迄骨を折った。――砂町の方にある、古本屋で漸と見付けたのだが、――運命か、五百円と亦た安価で、一と度見紛うたが、確かに五百円だと云ふ。……で買って来て、熟々読んだが、まあ、歴史的にも古いし、時代的にも、自今ああ、人工知能が発達の一途であるから、戦争も、恐らく、人力では行われまい。
ああ、話が錯綜した。……で、其本が私には、まずまず優れているように思えたし、古ひ人を云ふと、三国志の劉備の愛読書であったと云ふから、時代は亦た置ひておいて、現代でも仕様に寄れば、使える気もするのだが、ああ、矢張り古ひ。
今戦火こそ来れば、太公望では敵うまい、と思ふ。
其四 酒呑
何時か、酒呑と一夜明かした。
其人は最う死んで居る。が、今も私の脳裡にしっかと生きている。
夜分も遅かったので、電車も遣って居らぬ。で、一晩呑もうと、近くある酒場で、其人と二人話して居る比、如何も妙なこと、老翁が横で呑んでいて、もう一人の方、凝視する。で屈曲した――と云うもの渠は随分彊い人だったから――。
「おや、そんな見ないでおくれ」
と老翁は首を捩り、
「お前さん、……」
と舌をぺろりと舐めて、
「娘だ! 私の! 」
と渠を掴むのである。否に切迫して居たから、渠も流石に驚愕いて、
「ほええ、何事で!」
と私も合間に入り、
「まあまあ、……」
と私を見ると、発として、眼を凝とさせて、私を見ると、
「はああああ」
と逐電してしまった。――
「可笑しな人」
で、亦た話出して、
「僕は屹度中学は出ましたよ」
と云うと
「あら、御めでたい」
と莞爾して
「で、高校は? 」
「行きませんでした。いや、行けませんでした」
と困ったもので、渠は不安げに笑い、
「行かなかったの、然う……行くと良かったんですがね」
「いや、――でも其後、少し福祉に興が湧きまして……」
と、大喜びで、
「あら、素晴らしい」
と云った。で、寸刻寂として、
「婆さんは? ……」
と私は少しまごついて、
「先刻の老翁と……同じです」……
「然う……、まあ、仕様ないわね」……
と、物憂く目をば伏し、窓の表を見て、
「今日はぶらっづ、いや、ぶら、ぶ、」
「ああ、ブラッドムウンだねさ」
「然う、それ、ああもう、歳は嫌だ」
私はつい笑って、
「確かに、ははは」
と妙に嬉い。
外は暗がりで、何も見えぬが、空に高く高く、金鏡、じゃない、血鏡が一つ。ああ、もう……?
「今、なん時だったか?」
「あら、時計がないね、まあ、どうせ夜が明ける迄は爰でいいわ」
「然うですね」
で、ステージに、ギター弾きが出てきて、披露しようと云うのである。
渠は歳も気に懸けず、
「あ!ギターよ、お兄さん!何か弾いて!」
と、兄さんはピックを取出し、
宵も更けて、酒に酔う
歳も老けて、病に酔う
と此処で、渠が大笑いして
「あはは、可笑しい可笑しい、斯ういうのは歳に成って判るもんだ」
と兄さんも笑って、私も笑って、
「然うですか、はあでも、昔から、そればっか気にしてんのはあなただ」
と、急に実体に成って、
「あら失礼」
と大笑い。
まだまだ宵は続く也……
其五
――渠らの優位性――(断)
今日の処つらつら考え、結局はとどのつまり。……と思召せ、実は件の――と云っても爰では云うの避けていたが――渠らの優位性に就いて、面白き閃きを得た。まるで其着想に関係のない、公園に坐して、昼食の最中、ルソーのエミールと云う、教育本を追走し、ああ、論文だったな、紅葉さんはそういうのは寧ろ、遠ざける人であったし、……だが一寸話が違う。――あれは、確か小説体だったな。
で、ここに源泉がある。
次に、優位性への懐疑である。
是に於くは、無論疑わしい話であったのだから、気づかぬ私が悪い。で、優位性をひっくり返すと、則ち奈何。……ああ、劣位性だ。……此処で発想は大きく伸びた。
詰り、渠に優位性があるでない。私に劣位性、亦た、それに等しい劣情がある。と云うことである。
次に、相乗効果に就いて述懐する。
例えば、極論、王国、否、帝国が存在し、発展は空の如く豊かに、民は皆服従し、恰も優れたる帝国なり。で、其処の帝の娘が居る。容姿見るだに麗美に、玉にも紛う其肌、……さて、爰で、町の娘たち、乃至、男達は如何思うだろう、気持は如何だろう。
「悔しい」
お!、一人目の劣位を抱えた少女だ。
此娘は何優れるともなく、何劣るともあらぬ、凡民である。さて、問題は劣情である。帝の娘への、執着である。では、其根底を探ってみよう。
娘は敵わぬ、と思う、それは則ち諦めに近い。で、幾らか試行錯誤し、自ら改変を考える。が矢張り敵わぬ。爰で生じるのが、嫉妬である。深く云えば、途方もない。人間の原罪である。
爰で先づ、一つ目の効果、嫉妬、諦め、才能、生まれ、素養、経験、一と包みに、――運命――それらの相違である。
次に、距離である。
娘にとって、皇族は遠いであろう。かいなを以て、思い切り、伸ばしても、届くまい。会いたい、と思う、知りたい、と思う、恰も恋の人のように思う、其距離とは、則ち法であり、亦た運命でありながら、幻想なのである。
この二つの相乗効果、と云うわけで、劣位性は強まる。と云うことである。
其六
輓近行きし墓詣 上
二月も始まり、月も半ばで、直に墓詣に行こう、と云う話になった。
其日は奇しいことに、よく晴れて、肌えもよく焼けよう、上着も要らぬ、程であった。
首途、聊か、まあ、件の婆さんの忘物で、もたついたけれど、行脚は心が広いと云うから、のべつ依遅としても、怒り、憤るほどじゃないのだが、父の方が短気で、苛立ちつつ、車のハンドルを、つんつん弾いて居たほどで、宥め、冷静させて、面白いもので、義理の母の前だと、つんけんしているのに、私の前だと、「ああ、そうか」と首肯する。
まあ、そんなこんなで、車を出して、幸い、道は空いて居たので、すうすう、市川の方に向かい、やがて霊園は近い。
云い忘れたが、日曜日である。にも関わらず、慮外駐車場は空いて居て、……母は気が利くなあ……と思いつつ、木立の本、墓所に就いた。
安閑なる処で、人の気がせぬ。
風吹きぬ。――
杓、桶、雑巾、供えの品に、ビール、お茶、と万種持ってきたのを並べて、――線香は?――遣ったな! ばばあ! ――忘物。
で、爺さんと父と、無論、婆さんも買いに出た。――
で、須臾の間、墓石に話していた。
「楽しいかい、そっちは」
「うん、楽しいよ」
「よかった」
「で、あんたは」
「なんとなく楽しいよ」
「なによ、それ」
で、あの人らが戻って来て、
「高い高い、300円。でも3割引き、でも大して変わらんよな」
と文句をつける。亦た、狡知な人らだな。
そうしてこうして、石を磨いて、――亦た、線香を焚き――杓にて、一人づつ、……
「帰るか」
「うん、またね」
「またね」
と、後ろ、母の風をば感じた。――
其七
散策
遑紛れに、そうでもない、が、些少は運動不足――入相の灯影侘しいから、――ふと立ちて、外套羽織り、――お守りも――以て、外出で、天澄み、千切雲に夕顕る、懐かしさに――
さて、いづかた? ……と、通に出で、左、ああ、そうだ、ポニイランド、あすこだ。……と思う。冷や水に冬の朝驚く風に屈しつつ、東へ、東へ、……
日曜はさばけて、忍びにも若かぬ、人声の無きに、絶するは大人、現実に、向けたり、背をば。……
大分歩いて、面つきも冷ゆ、その路、公園に続いている。――
丘がある。――よいしょ、よいしょ、コオトのオールブラックが、空しい丘の頂に、――
「はあ、」
江戸川が見え、峯連なる如く、家並が伸切り、――なにか匂う――とかしこ振向くと、――寒梅の海――波浪の合すは、見るだに美しく、仄紅いの浪路、雀が静と、渡る。……
と、なにかが私に、
「兄さん、綺麗だろ」
と、子供の声だ。
「もうすぐ桜が満開になるよ」
「そうだね、また、いつか、見られるといいね」
「ふふ、兄さん、あんたは元気だ。病んじゃない」
「そうかい? 元気に見ゆるかい? 」
「うん、健康そのもの」
と、風が帽子を飛ばして、
「ああ! 」
と掴むと、その子供はもう居なかった。……
梅の香漂う、丘の上。……
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