惑ひ虫 断章

孤老人

  一
 暁間が、果たして小秋に、紅葉に差懸かり、爾来、炎を湛う峯、と謳われた、明方の、稍々小寒い気の、川辺に、徳性に、暇乞いに、否、蓋し、老人は連綿と――と云うより、依遅として、渡ったのは、晨……とは云うまでもなく、冷たい秋の風吹く、上流の方である、新居橋である。
 はて、自分語は止そう。さて、何分担いで出た、ステッキは荷に重い訳であるから、否、今日ばかりは、莫しで行こう。――と雖も、矢張り心持不安だから、斯うして、担いで居る。――と云う訳で、覚束ぬ昨晩の迷夢をば、手日記に就けて、出でて来た、田舎は何あるにも莫く、――霞がさらりと天遥かと差して――山を、谷を、村を抱き、町を抱く――。
 下駄をカタカタ、宛らお江戸の長子……では莫く、……尤も腰も折れた翁、と智日が、山を昇り、川に澄み、人に映ゆる状、独り行くのは愉快さね。……
 畦は小径に、紅葉に彩色され、恰も、晴れ姿の、娘の、かんばせを思うばかりである、で、清水にせせらぎ、米も今年は美味かろう、と思う。
 で、夏も暮れけり。ああ淋し。と、朝から、若いのが――尤も、張り切って居るのは爺さんばかりだが――催しの祭具と、輪宝、火舎、錫杖、燭台の数々、幡を、香炉を、と大袈裟だが、紅白の幕、調度のらも、亦た漲って居るのは宜いが、
「爺さん、腰に害だ。若いのに任せいなよ」
「いいよ、お前は餅でも搗いて来い」
 と奥さんは白けたおもてで、
「まあた、夜にゃ按摩漬けのひょろひょろよ、いい気味」
 と、旦那も負けじと、
「神様を尚ぶ心は莫いのか!」
 と怒鳴る。おお、怖い、女は一と度は怯むが、冷然と、
「そんな、神様もお節介だわ、ほほほ」
 と、
「私は知りません。按摩、按摩!」
 と嫌味に叫んで、プレハブの中に入る。
 随分寒々する、其風光を見さしめられ、――ああ、家の奴も強かったな。……思った。
 彼れは三歳も前、……家内は肺病で、尤も、只、見ていた訳にない。抑々、彼奴は勝気な性であったし、何か近頃、咳をするから、医者を進言せど、無論、気にも触れぬもんで、奴には敵わぬ、と思った。
 で、苔石に雨が散る、文月のことで、雷が轟を飛ばす位の、暗雲満天、そんな、朝であった。……矢張り、奴は勝気だから、朝はきちんと起きて来て、近頃は、食が悪いね、否、夏バテよ、なんど喋って、奴も、何時もの如く、何程あらまじ、午の頃迄は、真個に何ともなかった。が、二時も廻った比に成ると、だしぬけに、雫の地に落つる刹那、何ぞ奴の、のんどに、絡まったか、巻着いたか、呪ったか、咽び、血を吐き、茶の間に倒れ、畳の上、もがき、足搔き、苦しがる。只事ではない。……ああ、! と、茶なんど、擲って、尽きぬるばかり、咄嗟に背をさすり、大丈夫か、医者は、ああ、など云っている間に、……奴は、ああ、伸ばした手を、くたり……と落として、息を留めた。……まずい。と冷汗三斗に、刻は留まり、ぴたり、死にゆく、見ると、顔をば、……少女だ! と思った位。詩美に、須臾に、時は失せ、狼狽は忍び、矢張り、少女だ。と思った。
 其後奴はポックリ死んだ。我に返って、医者を呼んだ。が、手遅れの、末期の、肺癌で、あああ、気付いて居たのに。……と思うばかりであった。
 だが、私は最期、奴に恋さしたりき。……彼れが恋だね。……ああ。

  二
 そうも考え、思案し、山の都……ああ、小正直な、平坦な、緑の地平。畦も随分下り、いつか、昼も摂った、夕間暮れ、村の子供らは、着物に、脚絆に、小袖に、舞って、鼓が聞こえる。……宵もしんしんと、あづまの虚空を、追って、じわりと、むしばみ、列宿に影、葉末に月差し、入相は、六時も深かった。
 宵も長く成った。……
 しみじみして、池の辺で、祭囃子遠つ、蛍を望み、恍惚と、安酒片手、寂寞たる森の中、哀愁で、たちまち、顔を上げれば、たぞ! 居るか! と叫ぶばかりであった。
 天に懸かる、其金鏡、零れそうに、雫を落とし、山を照らすは、……
 其処は、閑に彩やかなる、苑で、……素にさざめく清水の仄かな、……すがり、問ひ、しこうして居ると……声だ、声がする、
「彼方よ……否ね、うふふ……」
 若い、それも、幾らかあるようで、
「こっちに、蛍が住んでいるの」
「本当か知ら」
 と近くあり。慌てて、木陰に忍び、……
 其状を見ていた。
 三人居るようで、一人は小太りで醜悪で、着た小裾も台無しだ、と思う程、老けて見える。もう一人は可愛らしい、が美しくない、十四、五の、小櫻の袖におみなは、盛である。で、最後のは、……桃李の燈篭、とも思う、少女で、是は地味な小緑の裾、簪こそ、艶やに、横の二人とは一壁を隔てている。
 凝と、見ている。只、見ている。花の香だ。……
 私は少し、考えた。――

  三
 一人娘が身罷りけるは、げに皐月の、孟春の末で、たおやなる雨が、ぱらりぱらり、下る、夕べであった。
 渠は、生就き、小さく、稚子の比より、喘息持ちに、医者も、浮かんで長生きは出来得まい、と云う位に、か弱く、金糸のように、綺麗な子で、雪を湛えた玉肌に、真黒によろずを見ゆる瞳、かいなは握るれば、折れて終うほど、水嵩深い、幽美な娘であった。
 故、なんだか、生まれてからも、渠のさきには、息を留め、寵愛に、思わず、頬和やらげ、接する程であった。
 だが、矢張り、渠は長くは、生きはしなかった。……
 其夕べである。
 皐月で、奈何にも梅雨入った感深く、地を、淑やに貫いて居た。で、渠は、十歳にも成るか、成らぬか、で、寒い朝であったから、暖かくしてやり、学校の方にも、尤も、通えず、病弱に、虚弱に、蒲団にまろんで、
「父さん、……母さん、……」
 と、枯懸かった声音に、
「一寸、苦しいわ、」
 と雨の空をば見て、
「肺肝も染む、思い、……」
 と、云い、死んだ。……雨が強まり、背も凍てつく思い。
 妻が掴み懸かって、あなた、あなた、と叫んでいた。が、是は、必然、だと思った。此子は長くは生きられまい。そう、生まれた時、思った。医者に云われた故にない。……渠を育てて、悔しい、と……思った。が、夫れも引包めて、此子の一生であった。とも思う。
 しこうして、其死姿は、げに、咲いた花より、咲きかかりの花、で不思議と、美しかった。遺骨は、小さく、軽く、鳥の骨か、とも思う。
 只、其花を、散った侭にしたい、とも思った。
 是は綺麗だ。否、綺麗と云う言葉でも足らぬ。花でもない、夢の如き、飛んでも莫い、娘であった。初めにして、最後の。ああ……今でも、亡き妻の泣き顔が浮かぶ。……

  四
 隠匿林藪を抜け、侘しい思いに、街燈も、月彩も、幽めく愁よいに事を感け、遂に夜の径路、よぼよぼのおもてを俯き、漫々、飯は? いらん、と拗ねた子供の如く、寂然、羽虫の鳴く田舎道であった。
 悄然として、就いた家に、畳に、不図、まろび、仏壇に目を遣った。沈黙の仏間に、遺影に、……思いもなく、跪いて、只毛もよだつ。
 で、夜を明かし、微睡み、目覚めれば、日輪激しく、晨のあづま日。
 雀の小声が聞こえ、此秋の無上なる景を、森を、峯を、たぞ訝るか。と言うほど。
 其侭、愁思し、茶を幾許啜り、平安なる、おもて、出でて、出でて、件の散策に。
 と、何か吸仍る心地、山に坐り、其景色を見ていた。天静に、四面はたぞも居らぬ。情懐も莫く、不図、考える機会だ。と思った。――
 抑々、己は奈何にあろう。哀れな、劣等である。小娘だに憐憫せる、可哀想な犬である。爾り思うと腹が立った。
 が、仕様あるまい。……齢も齢、好い大人が、情けない、と思った。
 自ずに叱咤されたにより、示された。それは、自らの中の氾濫を綜合するものにして、奈何に繚乱せど、怖か莫い。
 いつか、惘と、古い、町に入った。が、決して佳い心持には莫い。古い軒並みに、埃と自然。
 そうして、長椅子に坐って、居ると、遠く柱が丘の上に四阿を築き、ある。
 其処に、見た、……私は、……車椅子を、緩く前進する。はて、麗しいのを、見た。
 ああ、渠には右足が莫い。その奈何にも色鮮やなる、口許。憚りに思うばかり、見ていて、ああ、咽ぶ思い。懐かしく、若し、渠の為、私は、自らを葬るか。否、我慢など出来得ぬ。葬れるものなら。素の雪。暗く、物憂い、郷愁。……数多の仏も、神も、爰には居らぬ。風に素と揺る、碧の髪に、遥として、芙蓉も枯れ、百宝も、忽ち崩る。寒く莫いよう、葡萄酒色の外套に、すらりと蔽われ、天堯い、女帽が、リボンが、スカーフが、風に靡き、かたわずいたる身、彼の、……看護師が車椅子をば押し、幾千の調を渠と隔てた。……
 惑いは放たれ、発と、立ち、走ろうか、駈けようか、焦って、然し、何かが其を留め、伸ばせば、届くか……否、届かぬ。夢を見ている。
 ああ、小賢しいのは要らぬ。恋か。否、もっとである。陽が射し、渠は消えるか、……消えぬか……紛うて、ああ、いづかたか、彼の、もどかしさ。……
 恒久の間に、私は渠と契った。一風変じて。……
 真澄の空、丘の上、渠は、風もろとも、……消えけり。……

  五
 果たして、根絶やしと思われた、私の余生に、冬が来たり。
 渠は、夜毎おとないに来ては、夢想に、幻覚に、或いは歪曲し、春風の如く、或いはぬくんで、冬風の如く、仁田山か、否、確かである、事象である、感を手配する。
 其晩、札札と、幻を見た。
 家に就くと、四面は真暗に、いとど、幻は強まり、つつやくように、よしや、よしや、……顔を暗がりにザブン、ザブン、洗って、……暗い仏間に、何か、光をば見き。
 彼れは、渠、か。……仏壇に据わる截然たる、境界。ややもせば、位牌に手を伸べ、緩やに、……緩やに、月も莫い晩、呆然と、それを、舐めてみた。……
 が、冷たい、生気あらぬ、遺影を見ると、それまでの衝動とは、何ぞさかる、のである。……

  六 第一夜
 初夏の、寒い晩方。晩と雖も、矢張り、日は伸びたし、十分、暁雲の明るみはある、が寒う風吹き、春の宵、という工合で、新緑は凍え、萌立つ程にない、川辺に、松木立の淋しい群れを見つつ、清かには、到底ない、都のどぶ川のそよそよと、音たてるに、私は夕霧の中、侘しい背なである。
 だが、妙だ。私は、ほおずきや、牡蠣の、恰も、其殻のうち、居るような、清水は聞こゆ、――どぶでも――そよそよ……だが、妙で、篭った感が、耳の中を、他を覆い、フロイトにも、ユングにも、縋ろうとも、思う。が渠らは無論死んで居る。
 爾る、たえの、紫色懸かった、視界に、眼界に、嫌な羅幃が、張られたるように、不吉に、痴呆か、――とも思う程で、嫌に成って、帰らんとすると、雲雀の征くのが、見えた。……もう、春か。……と思う。が尋常ではない。雲雀は、もう先刻の昔、飛んだのではないか。今、時分は、節は、初夏、三伏の蹴りだし。
 可笑しいな。思いつつ、家に向かうと、……! と何か、落盤に、沈んだような、深い穴に入り込んだ。否、落とされた。地が砕けたのであろう。頭方、大いなる穴あり。
 如何やら、道が在って、細く、土に、解れて、ほろほろ云う中、歩んで、行くほど道幅の丈が、妙に拡がって、弓形である、夫ればかりでは、莫い。血潮の、砂鉄臭い、生の香がする。だが、亦た妙に、鼻腔をば刺激するは、匂にあらぬ、なにやのエロス、である。
 行くほど、広く、弓形は強く、愈々、丸い広場に成った。
 と、爰で、高い声音が、いづかた、響いて居るが、何処か分かたぬ。……ああ、Callasだ、と心付くと、同時に、行燈が四面を、気を照らして居たことに、心付いた。
 カラスは、カラスだが、奈何な曲か、是分かたず。哀愁的に、キリストの讃美歌を聴くようなる心地で、嫌に成った。
 だが、其嫌気は、次いで、ときめきと成んぬ。
「ああ、君か」
 とつつやく先、渠は居た。
「何だ、探したではないか」
 と、ぼろぼろに解けた、爛れた、鮫肌えにふれると、忽然、ばらばらと塵に崩れて、血しぶきに、否、永い恋の水だ、と正す程、私は冷静に、
「そんなに、怒るなよ」
 と抱きしめた。……
「此処を出て行こう」
 と稍々骨ばった、乾いた、ひじのからからする状は、鯵の干物を思わせたばかりであるが、渠は動かず、一声も発さぬ。
「如何したんだ」
 と云うと、あ! いけない。と思った。と云うのも、窃盗で、捕まる。と思ったのである。
「静かに行こう」
 とほろほろと、なだるる肌えを抱き、姫担ぎに、こっそり、……其自らの悪性質に、恋をした。
「ああ、愉快だ」

  七 第二夜
 秋の暮懸かった、よみの、くれないの、霄高く雲雀。俯瞰のもと、私は我を見て、我は私に見らるる。真澄の世界に、畦に、私は、其幼い少女と、手を取り、謡を歌い、冬近く、やがて秋そむ四気のまにま、名利か、否、……忘れさせろ……失せた神通力、少女は、恐らく、孫ではない。では、娘でもない。して、憧憬の偶像である。
「爺さん、何処へ行こうか」
「さあ、何処だろうね」
 夕陰に、長いのと……小さいのと……
 と、遠く、子供が泣いて居る。ひざを抱え、かんばせを赤らめ、鼻を垂らして、夕の射す地蔵菩薩の傍ら、青い背な。
「爺さん、可哀想だわね」
 首を捻って、
「如何も出来んよ」
 と、子供は汚い褞袍で、土の着いた小袖は、切切して居て、ああ、釣合いも不都合か、と思って見て居ると、
「可哀想だ」
 頻りに少女が云うから、此処は大人しくしよう、思い、肩をすくめ、
「坊ちゃん、如何した、母さんは何処だい」
 とよしに眼配せ、柘榴が、果たして実って居た。
「柘榴が欲しいか、ドレ、取って遣ろう」
 と夕の影伸ばすと、子供はかひなを引掴んで、叫びながら、閑なる田舎に谺を響かせ、夕を乱し、柘榴に食らい、かひなを奪って行った。……
「痛いなあ」
 思って腕莫い腕をさすると、少女が、うたた山に帰る陽を見つつ、
「何故か知ら、ああ、悔しい」
 と不機嫌に成った。
 それから、寸刻歩いて、あっさり、あたかも、ぽおる、ぽっつ。
 釈然せず、ぶつぶつ云いながら、最う山中深く、疾うに宵紛れに、たたなわるる峯を越え、丘を越え、月は雫も滴る満月で、さながら節は兎であった。
 が、事態はさかった。――
 月はとがり、私の首を刈った。……少女であった。
 ねんごろな奴だ。思った。樹林の中、少女の美しい姿を思うと、既に、少女は消えて居た。そうして、残ったは、我と、我が兜。……

  八 第三夜
「いいや、勘弁だ」
 殺気に羅襦を叩き、おもては曇天だから、玄人の徒労で、所詮齢なんど、累ぬるものに莫い、爾り思った。
 渠は、頑固で、腕に縋り、キスをとめ、胸を擦り合わせつつ、へたくたまとわって、白妙のワンピイス、冬も厳寒盛って、替名を風小僧という奴も、肺病で倒るる程で、だのに、渠は随分楽気で、タイツを履き、チェスタコオトに、朱の帽を戴き、ロングブーツは牛の革である。
 蒼蠅いから、叱咤すると、拗ねて、靴を蹴り、軒に、骨木立に、更り降る小雪を遊び、遥行くラーメンの屋台に叫び、悪戯も好みと見えぬ。
「止せ、止せ、」
 そう云い、海道の田舎、空しい夜、幽かに夕が西、遠つ懸かって、亦た、星は、幾分燦然を失して、重々たる雲を透かし、月も等しい状で、……私は聊か、苛立って居る。
 乏々と、何処へ、一体行くのであろうか。
 其を知っているのは渠に相違なく、私とて、遺憾のあらぬところで、戸をば覆う音が、山の深い方聞こえ、やがて、トンネルに差懸かっても、私は、判らぬで、いい、と思う。
 夜風の導く侭、娑婆世界は終わらむと、暗い闇に入って、手探りで、掻いて、縫って、漸々渠の手を掴み、重ね、燈一つない、転日回天、真暗の路、柳のささやく音聞こゆ。
「あすこだ、柳は!」
 そう云い、私は駆出して、
「此処だよ、此処」
 と渠は冷然と、
「そうね……」
 と夫れよりは、黙って仕舞った。
 恍惚して見ていると、その弱柳を渠は、瞬間、蹴倒し、踏躙り、暴れ、
「止せ、! 止すんだよ!」
 と、渠に失望し、其処にまろぶ槌で、
「ほれ!」
 と一と振り。
 其処に渠は消え、莫くなった。あれ、はてな、あばらを粗く呼気し、四面見渡すも、まるで消えてしまった。
 をかしさに、点と燈った残燭に、笑い転げて、柳は、愈々千千に裂け、暴れても、渠は戻らぬ。……

  九 第四夜
 ああ、真赤であった。……
 巌山深い、仏の境地、否、妙地、此処に、変文にも莫い、或種の肌抜けが、ああ、智日も莫ければ、金鏡も莫い、惑いも莫ければ、果たして、化現も莫い。千方に暗闇ぞ、遍く拡がる、一と時揺れて也、刹那弾け、曼陀をば貫き、閻浮は千切れ、思惟失せ、觀の自在は杳として暗がり、忽ち、菩薩もあらず、全ては満ちぬ。
 見えた、と思うと、消え、追おうとも、考えるに能わず、閃光が鮮やかに、して、……
 暗がりに宿った。……此処は、深い峯が底。
 静かに、鼓動を弾ませ、……
 時に、ああ! いけない。とも思う。
 が、意識は次いで、飛ぶ。……

惑いの草枕

  十 
 時節は、端月も渡った、千鳥の行く、児も、凧を上げ、駒を廻し、遥かな田圃路に、羽子板を振るう、小川の白滝も、凍てつく晨で、夕べは雪もしんしんと振った、後の小春で、霰の気も莫く、端の月は朗らに、のろりと下って行く、ブランチの比であるが、私とても、遑ばかりでない。なにを、正月にせわしか。――、と云うのも、狂いそうだ。と云いたい程、せわしい。困った。
 ――人を、探して居る――
 また、冗談。笑うか、笑わぬか。否、大変なこと。娘よりも、君よりも大事な、母より、もっと切なる人を探して居る。
 さて、朝の目覚め悪し。
 連続的迷夢だ。
 嚮日、素と垂るる霜の髭を捻って、居眠りをした。其産物が是である。
 嫌に困った。正月早々、人探し。奈何せん、はた、奈何せん、眶をさすり、山の径路を、縫って、迷って、……渠……はいづかたか、老体なんど、忘れたもの、春に遅いも莫い、歪んだ眼界、夢のまにま、揺るる、渠の許を。……

  十一
「知らんねえ」
「私にゃ判んね」
 幾らも勢が出でぬ侭、数時間、潰して、潰して、村が中、彼処より彼方、行く程、手懸りは莫く、して、夕は暮れ、爺さんから、婆さん、娘から息子、聞こゆるばかり、耳を凝と澄ませたが、一向よもやまに、いかで、探さむとは、気勢就いても、老体が唸るばかりで、あはれ、如斯じじい、其分厚い手に涙するは、もう、一と夜をば明かしたる後に、天は閑として、地は不動し、
「知らん」
「聞かないね」
 と、ばかりである。
 だが、妙で、此の孤独が、むしろ、私を、励まし、激昂させ、単には脳を凝らすことと雖も、木葉落つる感は否めぬ。
 さて、幾らか思案しつつも、小汚い商店街を、いつぞか、ふらふら歩を転ばせ、月掻く刀の店、訝る電気屋、小難しい塵の本屋、それらを背なに預け、隣町、其隣町、亦た隣町、人には狂人と笑われ、發と、思うことあり。
 ――彼の町は、何処さ――
 そう思うと堪らなくなった。
 何処か、何処か。かしらの何処さ? 得心なんど出来得ぬ、自分の了見が分かたぬとは、奈何な了見か。
 はて、気も付けば或わたつみに、望み、更に云うことなかるべし、寂然、さなきだに淋しいのを、浪の畝るが余計に胸を引く。
 はあ、私は奈何にしたか。痴呆か。とも思う。漣の果て、渠を、見はせぬが、薄れて顕れる感がある。
 しかして、持して出た金も失せ、食うべきは莫し。
 死のう。と思う。が、渠が現世に居るのなら、私も現世に居る迄なり。
 とも思った。……
 
  十二 裏層のエロス
「あすこか、否、どこか」
 逡巡に、大通りの十字路、くるりくるり、廻って居る、寒空は、はて、もう春色濃く、寒いとも就かず、暖かとも莫い、風は稍々冷たい、が日盛りは触れるに丸い、ほわりとした、彼方には、雲すでに峯形に、ああ、冬も越した比。
「いや、……」
 思い出だすに易しく莫い。……と云うのも……いや、止そう。……
 或る本屋を尋ねた折である。
「あの、とかく、綺麗な、いやいやあ、もっと、生々しい、薔薇のしっとり濡れたような、如爾、おみな児を、いや、少女を、探して居るのですが、知りませんか」
 屋主は、不作法にかむべを毟って、
「お客さん、些と、何をさ言っているか、判らんね。幾つの娘だい?」
 実体、に焦って、
「幾つかは、私には、判りません。本当に美人なのだが、まるで、知りませんか?」
「いやあ、そう云われたもなあ、ははは、爺さん、隣町の風俗にでも行ったら如何さね」
 と莫迦にして。
「そんな、莫迦を云うな。こっちが必死だからと!」
 憎らし、思い、矢張り店を出でぬ。
 侘しく思って、本屋を背にして居ると、わんわん拡がる春の虚空の下、悔しく、茫茫たる草の原、いや、山も麓の、空き地のやたら広い処、公園じみた処へ至った。
 ――古い軒並み、自然と埃。――
 京都に行った時が風光とも、似通っている。
 が、彼れは妻の生前の話で、ああ、さかる。
 何処か、何処か。……
 山の中で、林、松、草木、森、川、其橋、それらが都と調和し、ある種の写真成るに至り、私は、もう、気が違いそうだ。
 埃を被ったように、昔のアルヴァムのように、茶色にくすみ、瞭然せぬ。
 その景色の中の渠であるから、気が違う。
 風が頻りに靡き、ああ、よかった。と思った。
 で、――結局、一と月の旅は徒労であった。……

御詫び

 此の著する処、わたくし自身遺憾窮まりなく、日々の多忙の故、勝手ながら、本章は一旦、爰に留むこととす。
 追って、近々此の著作のもう少し統合されたるなりに、しやうと思う故、御容赦願いたい。
 御多忙の中、僅かながらの人に、読んで頂けることを、わたくしは頗る歓喜している。
 如何か、此の失敗を一ト過程と見て頂くことを欲す。

                            笹崎 汐太郎 


 
 
 

 
 
 

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